「聖人！」

その声に、びくりと肩が揺れた。
まさか呼び止められるとは思っていなかったからだ。


テストが終わって帰ろうとちらりと翼を見たら、俊と楽しげに会話を交わしていた。
あの日…テスト勉強を一人でやろうと思ってから、どことなくあの2人の仲に入ることが戸惑われていた。
友達同士でこんなことを考えるのは可笑しいのだと、分かってはいる…んだけど。
今の頭の中がぐちゃぐちゃになってるオレが、彼らと一緒にいるのは悪いような気がして…どうしても距離を取ってしまう自分が居た。

（…なんて、言い訳か）

上手く笑える気がしない。
いつものオレでいられる自信が、ないんだ。


傍にいた友人と適当な会話を交わして、オレはもう帰ってしまおうと鞄を肩に掛けなおした。
横目で2人を映しながら、こちらに背を向けている翼は気付かないだろうと思いながら――

（さっさと帰って明日のテスト勉強しよ…）


ぼんやりそう思ったときだった。
翼がオレの名前を呼んだかと思うと、傍まで足早にやってきた。
「な、なに」
「何じゃねえよ。なんで一人で帰ろうとしてんだ」
「なんでって…オレだって早く帰って勉強したいし」

下手な言い訳だと思いつつ、他に上手い言葉も見つからない。
翼はじっと、真っ直ぐな黒檀の瞳をオレに向ける。

昔からこういうときに目が合うと、必ずボロが出る。
だから直視出来なくて僅かに視線を下げると、翼が溜息を吐いた。
きっとその癖すら見抜かれているんだろう。


「…じゃあ、一緒に帰ろうぜ」
「へ？」

翼の言葉が意外で、思わず声が裏返ってしまった。

「でもお前、俊と…」
帰るんだろ、という台詞は最後まで出なかった。
振り返った翼が、遮るようにこちらを見守っている俊に告げた。

「俊。悪いけど、今日はオレ達2人で帰るな。ごめん」
「え…」
驚いたのは俊も同じだったらしい。
けれど翼のいつもとは違う空気を察してか、ややあってからゆるゆると首を振った。

「うん、分かった…じゃあ、また明日ね」
「ごめんな」
「ごめん、また明日なっ」
急いでオレも謝る。
俊は小さく笑うと、鞄を背負って帰っていった。


「…行くか」
そして逃がさないとばかりに、翼がオレの手首を掴む。
その力の強さに、一瞬だけ怯んだ。

「…おう」

その横顔はまるで知らない誰かのようで、オレはそれ以外の言葉が出てこなかった。


特に話さないまま、昇降口まで歩く。
なんとなく気まずさを感じて会話の糸口を探していたオレに、革靴に履き替えた翼がぽつり、と落とした。

「それで、お前今回のテストはどうなんだよ？」
「え、あ、ああ…結構出来てるんじゃねえかなー？」
「ふうん…」
勿論自分比、だけど。
しかし尋ねておきながら、随分気の無い返事だ。
ちょっとムッとして突っかかろうとしたオレに、翼の視線が向けられる。

日を背にしているせいなのか、その瞳は深く沈んだ色をしていた。
「つば…」
「これも巧のおかげ」
「え…」
「…なのか？」
「……それもある、けど」

なんだろう。
素直に頷いてはいけないような気がして、オレは曖昧に言葉を濁す。
そして無言で続きを促す彼に、慎重に――けれど本心からの、それを告げた。


「いつもお前が教えてくれてたから…ってのも、ある」
「、」
「ていうか、それが大きいかも」
翼の目が虚を突かれたのか大きく見開かれる。
本当だということを伝える為に、じっと見つめ返すと、そこにはゆっくりと、いつもの温度が戻ってきた。


「…そっか」

くしゃりと、珍しく屈託の無い顔で笑った翼に、どきんと心臓がひとつ跳ねた。