それは数分前に遡る。

「直！聞いたか、直っ！」
「え、何が？」
教室に入り鞄を置くなり、親友の順平が駆けてきた。
挨拶もそこそこに息を切らす彼の顔は若干青ざめている。

「今日は朝からなんと、あの嘉堵川篤也が来てるんだってよ！」
「えっ…え～！！」
その言葉がじわじわと脳内に染み込んでくると、遅れて恐怖心が襲ってくる。

嘉堵川篤也。
この月峰高校の生徒なら、誰しも震えあがる恐ろしい名前だ。
「か、嘉堵川先輩って…目が合っただけで半殺しとか、女は皆ポイ捨てとか、入学したときに当時のボスを潰したとか言われる…あ、あの…！？」
数々の噂を連ねるだけで怯えてしまう。
順平もこくこくと異常な早さで頷いた。
「そうなんだよ！いつも学校サボってるのにさ…」

彼はそう言いながら、更に声を潜めて続ける。
「…なんでも、誰かを探してるらしいぜ？」
「うわ…ご愁傷様…」

喧嘩相手か、先輩の不興を買ってしまった人か。
どちらにせよ、先輩に目を付けられたら最後だ。
二度と日の目は見れないだろう。

完全にビビるオレに、順平は不安を吹き飛ばすようにからりと続けた。
「まあ、なんの関わりもない俺達一年には被害はないから大丈夫だって！」
「そ、そうだよね…」
確かにオレは今まで嘉堵川先輩と出くわしたことすらない。
先輩は殆ど学校に来ないし、二年生は教室の階すら違うからだ。

ホッと胸をなで下ろした、その時だ。
乱暴な音を立てて、ドアが開いた。

その瞬間、教室中が水を打ったように静まり返る。

教室のドア枠を窮屈そうに潜り入ってきた一人の生徒。
先ず目に入ったのは、透ける金髪と赤いピアス。左耳だけに付けられたループピアスが蛍光灯の明かりできらりと光った。
鋭い眼差しが際立つけれど、すっと通る鼻梁も形のよい唇も、全てが完璧な容姿を作る要素となっている。

(わ…)
思わず見惚れていると、横で順平がぽつりと呟いた。

「か、嘉堵川先輩…」
「えっ……」
オレは絶句した。

あの人が。
あの……

完全に固まってしまったオレは、焦れば焦るほど視線が外せない。
先輩は教室をぐるりと見渡している。
ヤバい。マズい。このままでは…！

そう思った途端、先輩の視線とばっちり合ってしまった。
「！！」
金縛りが解けたように、急に身体が動いて、オレはバッと背を向けた。
でも完全に目が合った。間違いない。

(ヤ…ヤバい…ここ、殺される…！)
心臓がバクバク騒ぎ出す。
『目が合っただけで半殺し…』
先程の順平の科白が過ぎる。
(お願いします…こっちに来ないで…！)

オレの切実な願いも虚しく、足音が近づいてくる。
ふと、辺りが暗くなる。

「山田直」

静かな、澄んだテノール。
己の名前だと自覚出来ないくらい違う響きに聞こえたのは、こんな声に呼ばれたことがなかったからかも知れない。

ゆっくりと顔を上げる。
蛍光灯を背にした、金髪が眩しい。
「話がある。ちょっと顔貸せ」
「オオ、オレですか…！？」
ガタンと椅子から立ち上がれば、先輩が片眉を上げる。
「いいから早く来いよ」
「う、わ…っ」
抵抗なんて出来る訳もない。

腕を掴まれたオレは為す術もなく、屋上まで連れて来られたのだった。