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- 09/08 fragile (49) Side: 聖人
- 09/08 fragile (48) Side: 翼
- 09/08 fragile (47) Side: 聖人
- 09/07 fragile (46) Side: 翼
- 09/07 fragile (45) Side: 俊
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形のよい唇が、そっと離れる。
熱と感触だけが残って、今のが現実だとオレに教えていた。
(い、ま……)
確かに触れた、それ。
彼を見返すと、今度は目の際に降りてきた。
何度も慈しむように色んな箇所に口付けられて、くらくらする。
キス、されている。
翼に。
鈍い思考回路がやっと繋がって、耳までが熱くなる。
嫌とかそんな感情は一切湧かなくて――寧ろぞくぞくと、快感に背中が痺れた。
「…つば…さ…」
「聖人…お願いだ、オレを選んでくれ」
「…え…」
「巧じゃなくて…オレを…」
「……」
まるで祈るような響きだった。
オレの指をそっと握り、黒檀の瞳を向ける。
(…これ…朝にベッドから落ちて目が醒めたり…しないかな…)
それをぼんやり見つめながら、思わず真剣に考えてしまった。
だって、どう転んでも叶うことはないと……先程まではあんなに絶念のなかにいたというのに。
今では、その相手がこうしてオレを恋うている、なんて。
「…うん…」
「…聖人」
しっかりと頷いて、彼の手に己のそれを重ねた。
オレ達は、凄く凄く遠回りをしていたのかもしれない。
一杯苦しんで、悲しんで、嫌な気分にもなって。
でも、やっぱりこの人しかいないんだと、はっきり判ったから。
この痛みも全て丸ごと――彼を想った証なのだと、今なら胸を張って言える。
「オレも、好き…翼のこと…愛してるよ」
「……ありがとな…」
それは初めて見る、翼の顔だった。
心の底から笑って、泣いていた。
「…ごめんな」
オレ達の姿を見た聖人が、笑みを浮かべてそう呟いた。
同時に涙が頬を伝う。
この日、オレは聖人ともう一度きちんと話がしたくて、あいつを待っていた。
すぐに部活に行ってしまったから鞄は既になかったが、病院の診察券だけは残っていた。
次の通院が今日だと言っていたから、きっと戻ってくるはずだ。
待ち構えていたとしても、ここ数日のあいつのことだ。拒絶されるかもしれない。
それも仕方ないことだ。
だが、オレはまだ本当の気持ちを伝えていないから。
せめて――同じ土俵に上がらないうちから諦めることだけは、やめようと決めた。
その結果、あいつが巧の手を取ろうとも。
だが、オレを見た聖人の反応は、想像のどれとも異なっていた。
その表情に驚いたのも束の間、あいつはオレの言葉も待たずに駆け出した。
何が起こっているのかさっぱり解らない。
だが聖人の泣いた顔なんて中学生のとき以来で、どんな言葉をぶつけられるよりも衝撃が大きかった。
「聖人っ!」
ここで逃がしてしまったら、もう二度と彼は戻ってこない。
それだけは確かで、オレは反射的に走り出そうと急いだ。
「待って!!」
そんなオレの背中に叫んだのは、勿論残っていた彼だ。
「翼…行かないで」
「……俊…?」
切なげに名前を呼ばれて、のろのろと振り返る。
いやな予感がした。
オレを見つめる目。
何度も見たことがある、色。
(……ああ…)
どこか諦めにも似た、気分になる。
そうか。彼も、そうだったのか。
オレ達は皆不器用で、どこまでも平行線を生きている。
「僕…」
俊が息を吸う。
シャツをぎゅっと握りしめる小さな手は震えていた。
頼りなく揺れる草原の花のような儚さに、目を細める。
けれど、それを救うことは――自分には、出来ない。
「…俊のことは」
小さく、出来る限りそっと口を開く。
ぴくりと震えた彼の大きな瞳が、不安げにこちらを見上げた。
「俊のことは、大事な友達だと思ってる」
言い終わると同時に、背中を向けた。
たったひとつ、その細い影ががらんとした教室に伸びていた。
だから依存しないと決めたのは、離れようと決めたのは――二人にとって最良の選択だった。
それなのに、心は軋むような痛みを訴え続ける。
たったひとりの傍にいないだけで、ぽっかりと大きな穴が空いたような喪失感。
それだけ自分が寄り掛かりすぎていたのだと言われているようで、同時に苦しくもあるのだけれど。
(…オレって最低だな)
巧は、こんなオレを受け入れてくれると言った。
返事すらまともにしていないというのに、彼は手を差し伸べてくれている。
いつまでもこのままでいい訳はない。
けれど、オレはずるずると曖昧なままでやり過ごしている。
簡単なことだ。
巧の手を取ればいい。
同じような気持ちを抱けるかはまだ判らないけれど――彼の傍にいれば、これ以上傷つくことはない。
(…本当、最低だ…)
まるで逃げ道のように考えている自分に嫌気が差して、朝を迎えたベッドの中で酷く暗鬱とした気分になった。
静かな廊下を、怪我した左足を庇いながら歩く。
体育館で午後練を見ていたオレだが、今日は病院に顔を出さないといけないことを思い出した。
さっさと行けとシバっちに追い出され渋々と下駄箱まで行ったはいいが、財布に入れたはずの診察券が見つからなかった。
となると考えられるのは昼飯のときに財布を出した机の中だろう。
オレは仕方なく、教室まで戻る羽目になった。
しかし、怪我をしてみて通常の生活がどんなに楽だったかと思い知る。
体育館から教室までがこんなに遠かったなんて。
オレは休憩を挟みつつ、いつもなら数段飛ばしの階段をゆっくりと上っていた。
結局、今日も一日翼とまともに話すこともないまま終わった。
怪我を理由に隣に居ればまた甘えてしまいそうで、近くにいないように心がけていた。
翼もオレがいないことで余計な気を回さなくて済むのだろう。
俊に向けて微笑んでいる顔が穏やかで、オレといるときとは大違いだった。
(…これで、いいんだよな)
あの二人の姿を見ると、どうしてもモヤモヤした気分になる。
友人に嫉妬するなんてやっぱり面倒くさい奴だなと自己嫌悪は酷くなるばかりで、なるべく視界に入れないようにしていた。
でも、それでも気持ちは落ち込む一方だ。
何故何にも気付かなかったのだろうと、己の浅はかさに眩暈さえした。
運命は、とっくに動き始めていたのだ。
「実行委員への指示はこれで決定していいんだな」
「ああ」
紙を捲る手を止めずに頷けば、巧が隣にいた役員へ指示を出す。
休み明けの文化祭の準備の為に慌しくなってきているせいで、ここ数日は遅くまで残るようになっていた。
「…もうこんな時間か」
オレは眼鏡を外して目の疲れを指で解しながら、三人となっていた部屋を見渡す。
そして巧の横で書類を整理していた女子生徒に、声を掛けた。
「橋本さん。これが終わったら、君はもう終りでいいから」
「え…でも…」
「もう残ってるのは大した量じゃないから。有難う」
おずおずと戸惑った様子だった彼女は、オレがにこりと微笑むと頬を染めた。
いつだったか、彼女がオレに好意を寄せているからここに入ったのだと噂で聞いた。
だからやたらと仕事を買って出てくれているのかと、生徒会の活動に熱心だと喜んでいた自分が少々馬鹿らしくもなったものだ。
「それじゃあ…お先に失礼します」
名残惜しそうに何度もこちらを見ながら、女子生徒が扉を閉める。
残ったのはオレと副生徒会長のみで、暫くは紙の擦れる音だけが響いていた。
「話したいことがあるんだろう?」
どれくらい、そうしていただろうか。
不意に、確信を持った調子で巧が尋ねてきた。
遂に、バランスを崩すつもりらしい。
それはまるで――中世の騎士よろしく、手袋を投げつけられた瞬間だった。
「…どういうつもりなんだ」
なるべく冷静に呟いた筈だったが、語尾が憤怒のせいで揺れていた。
巧はまとめていた書類から顔を上げると、眉一つ動かさず返してきた。
「何がだ。お前にしては珍しく要領を得ないな」
「とぼけてんじゃねえよ。決まってるだろ?」
わざとはぐらかすような、茶化すようなそれにカッとなる。
確かにいつもの自分ならば、とてもこんな言い方はしないだろう。
尤も、それは何でも出来る優等生の”堂本翼”のときだけだ。
本来の自分はもっと粗野で感情的だと思っている。ことあいつに関しては、その制御が出来なくなるくらいに。
レンズの奥から睨みつけると、溜息を一つ落として巧が手元の書類を机に置いた。
そして、同じく剣呑な視線をぶつける。
「…お前に非難される謂れはないんだがな」
「なんだと…っ!聖人が急に可笑しくなったんだぞ、何もない訳ないだろ!」
我慢できなくなり、ガタンと音を立てて立ち上がる。
衝撃でコーヒーのカップが大きく揺れた。
昨日の、安心しきった聖人の横顔が目に浮かぶ。
本来それを向けられていたのはオレだったのに、そこにはオレはいなかった。
これまでの立ち位置を奪ったのは――こいつだった。
それだけで、この怒りの理由には十分すぎるほどだ。
巧は書類をファイルに仕舞うと、同じように立ち上がった。
真正面から対峙する。
「俺は聖人が好きだ。だから告白した。それにあいつは、誰とも付き合っていない。…この状況で、何故お前から怒られる必要があるんだ?」
「…っ」
はっきりとした形ではないけれど確かに残るそれに、僕は居心地の悪さを感じていた。
否、それは僕よりも彼だろう。
そっと息を吐き出しながら、横目で見やる。
一見すると冷静そのものの彼だが、瞳には明らかな苛立ちが覗いていた。
機微が見えるくらいには、自分も親しくなれた証拠なのかもしれない。
…原因は相変わらず、僕ではないのだけれど。
目の前の聖人くんは一人で荷物を抱えてフラフラ歩いている。
練習に出られない代わりに頭を使うのだと、マネージャーの撮った対戦相手の試合のDVDやノートをまとめて家に持って帰るのだという。
嵩張るそれは結構な重さだというのに、彼は手助けを辞退していた。
「なあ、聖人」
「大丈夫だって」
翼が言い終わる前に、聖人くんがにこりと笑って振り返る。
どこが大丈夫なんだろう。だって先程から、何度も転びそうになっている。
それでも彼は翼の手を借りようとしない。
頑なな拒絶ではないのだけれど、それ以上の言葉を言わせない強さがあった。
だから翼も、ただ睨むようにその背中を見守ることしかできないのだろう。
ここ数日、2人のやり取りはこれまでの彼らを知る人なら目を疑うようなものだった。
聖人くんが、翼のところへ殆ど近寄らないのだ。
休み時間は当然のことで、昼食は僕が誘うから一緒に食べるけれど、終わるとフラリとどこかへ消えてしまう。
帰りは部活に顔を出しているから会わなくて、一日で話す機会がぐっと減ってしまったのだ。
彼らの間にはっきりとした喧嘩があった訳じゃない。
現に、今日はこうして一緒に帰っている。
しかし、以前のようななんでも分かり合えている雰囲気はなく、まるで知り合ったばかりのようなよそよそしさなのだ。
だから、自然と僕と翼が2人きりになることが増えたけれど…。
(…こんなの、嬉しくないよ)
僕といるときの翼は、常に今みたいな顔ばかりだ。
話し掛ければいつもの翼なんだけど、それは取り繕った表面上の彼に過ぎない。
そんな彼が見たい訳ではないのに。
僕は人懐っこい聖人くんしか知らないから、こんな風に素っ気ないだけで、凄く不安な気分になる。
「聖人くん…どうしちゃったのかな」
「…あいつがいいならいいんだろ」
心にも思ってない科白を吐き捨てて、翼が鞄の取っ手を肩に掛け直す。
(…違うよ)
翼の嘘は僕にもすぐ分かった。
こういうときの聖人くんは、ちっとも大丈夫なんかじゃない。
心が、泣いているんだ。
それを無理にでも隠し通そうとするから痛々しくて、翼じゃなくてもやきもきする。
(…ああ、そうか)
だから翼は、彼にあんなにも気を向けるんだ。
こんなに心を占めて、目が離せない人――なかなかいない。
「…僕、翼の気持ちが分かったかも」
「は?」
そんな場合じゃないのにくすりと笑うと、翼は目を丸くした。
「あ…っ」
「聖人!」